腹の足しにもならない話

28歳OL男です。お尻が2つに割れているタイプの妖精さんです。

【第1話】行き慣れた喫茶店での姉との再会

 

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 冷えた風がぼくの手をなめらかになぞり、熱を帯びた体をゆるやかに冷ます。 
 日が暮れるにつれてさらに空気が冷えるだろう。持ってきておいた衣類に視線を落とし安堵した。
 
 店先には“営業中”という影文字を形作る木の枝が無造作に組まれ、立てかけられたブラックボードにはメニューが書かれていた。
 
“昨日のメニュー 刻みはんぺんと刻み大根の赤味噌風味おでん”
 
 お店の前に広がる田畑を眺めていると、待ち合わせの人物がやってきた。
「ごめんごめん、【“ガスコンロ”の“スコン”とは何なのか町内会】が長引いて遅れちゃった。」
「いいよ、お姉ちゃん。入ろう。」
 
 受付カウンターの上には手書きのメモが置かれており、ぼくらの後を追ってきた冷たい風によって不本意そうになびいていた。
 
「御用の方はこちらのスイッチを押してください。」
 
 メモに従い色褪せたスイッチを二度叩いた。
 フロッピーディスクの開けてはいけない部分を繰り返し開閉するような乾いた音が店内の空気を揺らす。すると、退屈だったのであろうか。目を凝らすと数種の気体分子が楽しそうに運動している様子を確認できた。
 
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「ふたりとも、いらっしゃい」
 端整に畳まれたアロハシャツをおでこに貼り付けた店主がゆったりと奥から現れ、一歩一歩受付へと近づきながら続ける。
「いつものでいいかい」
 
 ぼくと姉は膝を屈伸させ首を右から上に連続して振った。
 店主は小さく肯き、奥のテーブルを指差した。その指先にはめられた、みずみずしい輪状の人参が光を反射していた。
 
 席につくと姉はカバンをおろし椅子に腰を据えた(カバンの上ではない)。ぼくはマフラーとニット帽を外し、耳にかけていた長袖Tシャツに首を通した。
 
 ふいに、姉が「ねぇ、見て」と柔らかく誘導する。
 視線を向けると、懐かしさに目を見開いた。小学生の頃姉とよく遊んだ熊と鳥の冒険を題材としたテレビゲームの宣伝が描かれた大根が壁に突き刺さっていた。当時、母親に買ってもらってどれほど二人で喜んだことか。その話は今でも食卓を彩る。発売日なんてとうに過ぎていて中古で買ったのにあなたたちの無邪気な喜びようといったら......と無邪気に母が何度も話す。

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 さて、何から話そうか。姉とは数年ぶりに会う。姉はこの間に就職し、結婚を経て二児の母となったようだ。一方ぼくは来年の春に社会人となる。社会人のコツでも聞いてみようか、結婚生活でも聞いてみようか。
 いや、そういえば姉に自分の夢について話そうとしていたんだったっけ。
 
 静寂、かつ心地よい木の匂いに包まれる中、考えを巡らせていると姉の鼻腔からマヨネーズが垂れた。とっさに彼女は頬を淡く染め小さな笑みを浮かべ言葉を紡いだ。
「私、花粉症なの。」

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